大阪大学大学院高等司法研究科修了生の木村洋介と申します。
憲法学における「制度準拠審査(立法裁量縮減型)」(小山剛『「憲法上の権利」の作法[新版]』(尚学社、2011年)176頁参照)ないし「首尾一貫性審査」について、本学の片桐直人先生に質問したところ、大変ご丁寧にご説明いただきました。
片桐先生のご説明は、広く司法試験受験生等にとっても有益な内容かと思われましたので、先生のご厚意により、こちらにもその概要を投稿させていただきます。
【質問メール1】
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最判H14.1.31民集56-1-246(児童扶養手当支給打切り事件判決)は、「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」のうち「父から認知された児童」について児童扶養手当の受給資格から除外する旨の児童扶養手当法施行令1条の2第3号かっこ書(以下「本件括弧書」という)につき、法律による児童扶養手当制度の趣旨・目的に照らし、「法の委任の趣旨に反する」としました。
これにつき、小山『「憲法上の権利」の作法[新版]』178頁は、「仮に本件括弧書が法律中に存在していたとしても、立法者の第一次的判断権が行使され、それを準拠点として当該規定の首尾一貫性を問うことができるのであれば、本判決と同様に審査を行うことが(理屈の上では)可能である」としています。
ここで、
①法規命令は法律による授権が必要であり、法規命令が法律による委任の範囲内かどうかは法律の解釈により判断すべきところ、児童扶養手当支給打切り事件判決は、児童扶養手当法の解釈により、児童扶養手当法施行令が委任の範囲内かどうかについて判断したもの、と理解してよいか。
②①を前提に、児童扶養手当支給打切り事件判決は、法律と規則という上下関係を前提としたものであり、法律と法律という対等関係を念頭においた上記小山教授の理解は、児童扶養手当支給打切り事件判決による当然の帰結とはいえない、と理解してよいか。
③上記小山教授の理解は、どのようなものか。
例えば、<憲法25条に基づいて社会保障制度が構築された場合、社会権は制度として保障されているといえる。本件では、(1)法の趣旨・目的に照らし、「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」に対して児童扶養手当受給権が憲法25条により保障されているといえ、(2)本件規定が「父から認知された児童」につき支給除外とすることはかかる権利の制限といえ、(3)認知により法律上の父がいる状態になったとしても「父による現実の扶養を期待することができない」ため、本件規定は「父による現実の扶養を期待することができない類型の児童」のみを支給対象にするという目的を達成するために合理的な手段として正当化できないから、(4)本件規定は憲法25条に違反する。>と理解してよいか。
④上記小山教授の理解はどれほど一般的なものか。
以上4点につき、ご教授いただければと思います。
【回答メール1】
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ご質問の点、①と②~④に区別したうえで、順にお答えしたいと思います。
第一 質問①について
(回答) 正しいが、すこし注意すべき理解の仕方だと思います。
<理由>
「法規命令」も含めた受任命令は、法律の委任に基づくものですから、受任機関による権限行使が委任の範囲にとどまっているかが(法律が命令に委任したこととの合憲性とは独立に)問題になります(概説として、佐藤幸治・日本国憲法論・436頁参照)。そして、この事件では、児童扶養手当法4条1項5号に基づいて定められた施行令1条の2第3号が4条1項5号の委任の範囲内にあるかが問題とされています(ここ、条文まで細かく触れていますが、重要なポイントなので注意してください)。
この点、論理的には、法4条1項5号の委任の範囲を決定するに当たっては、同号の文言を解釈するのみで足りるという理解もあり得なくはないのですが、(おそらく行政法でやったように)授権規定の文言のみならず、関連諸規定や授権法全体の解釈によって判断するべきだという理解が通説的でしょう。そして、この判例は、この理解に立つものだとされています(竹田光広・最判解民事篇・平成14年度上177頁)。
そのうえで、この判例は、「法の趣旨や目的,さらには,同項が一定の類型の児童を支給対象児童として掲げた趣旨や支給対象児童とされた者との均衡等をも考慮して解釈」するという枠組みを立てているわけです。
このような論理になっているため、あたかも施行令1条の2第3号が(法4条1項5号)の「法」の委任の範囲内であるかを検討したように見えるのですね。
第2 質問②~④について
(回答)
②について ほとんど正解ですが、少し議論すべき点が残っています。
③について 誤解だと思います。
④について 小山先生の理解は、いわゆる「首尾一貫性統制」という考え方で、いまは 一般的だとはいいがたいのですが、様々な論点で有力説になっている立場(たとえばベースライン論や制度の原型に準拠した審査)にも論理的に近く、また、森林法違憲判決や立法裁量の判断過程統制を試みる近時の判例動向とも親和的で注目すべき立場です。ただし、論述試験でいきなり使うと採点者がついていけない可能性があるので、使う際にはそのような判断手法を用いるまでに周到な下ごしらえが必要です。
(理由)
1.(1) 手始めにこの児童扶養手当支給打切事件を踏まえながら考えてみましょう。最初に思い出してほしいのは、この事件については、学説上、憲14条1項違反を議論すべきで、しかも厳格な合理性審査を用いるべきだという議論があります(市川正人・ケースメソッド憲法〔第2版〕216頁以下)。また、本件1審判決も、憲14条1項に基づいて、次のような判断枠組みを採用していることに着目しましょう。
「憲法一四条一項は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。」と規定している。これは、合理的な理由なくして差別されないことが、個人の尊厳に立脚する民主的社会の不可欠の要件であるとの考慮によるものと考えられ、法の下の平等は、憲法の最も重要な基本原理の一つということができる。
前掲のとおり、法一条は、「この法律は、父と生計を同じくしていない児童が育成される家庭の生活の安定と自立の促進に寄与するため、当該児童について児童扶養手当を支給し、もって児童の福祉の増進を図ることを目的とする。」と定めているところ、当事者間に争いがない本件処分の経緯等を照らせば、本件児童は、婚姻外の児童であったため、血縁上の父により認知された結果、本件括弧書により、その児童扶養手当の支給が打ち切られたものであって、法四条一項一号の規定により、婚姻(事実婚を含む)を解消した母に監護されるときの児童が児童扶養手当の支給を受けるのに比して差異があることは明らかである。
そして、母が本件児童を懐胎した当時、血縁上の父と母とが法律上の婚姻をしていたかどうかや事実婚の関係にあっかどうかは、本件児童において自ら選択することが不可能であり、その出生により決定される事柄であるから、前記の差異は、本件児童の立場から見れば、その社会的な地位又は身分により経済的関係において差別的な取扱を受けたことになる。
もっとも、児童扶養手当は、憲法二五条の規定の趣旨を実現する目的をもって設定された社会保障法上の制度であり(最高裁判所昭和五七年七月七日大法廷判決民集七巻一二三五号九七六頁参照)、憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量に委ねられているから、手当の支給対象者の決定も広い裁量に委ねられており、法の委任により手当の支給対象者を政令により定める際にも、その委任の範囲内で広範な裁量が認められ、一定の差異が生じたとしても憲法一四条違反の問題は起こらない筈であるとの見解も考えられないではない。しかし、法が前記の目的のもとに、その支給要件を法四条一項のとおりに定め、同項五号において「その他前各号に準ずる状態にある児童で政令で定めるもの」とした上、法施行令一条の二でその支給要件を定めた以上、その支給要件が何ら合理的理由がない不当な差別的取扱をするような内容であるときは、当該支給要件を定めた施行令は、裁量の範囲を逸脱したもので、憲法一四条の定める法の下の平等に直ちに違反するというべきである。
すなわち、一旦、法の委任の下に、政令で法四条一項一号ないし四号に準ずる状態にある児童に該当する要件を定立した以上は、その定立にあたり裁量の余地があるとしても、これが何ら合理的理由なくして不当な差別的取扱をするような内容であってはならないことは当然であり、これをその裁量の範囲内とする余地はない。そして、このような差別的取扱を受けた者は、これが違憲・無効であることを主張して、その救済を求めることができると解するのが相当である。」
(2)ところが、通常の理解からすれば、社会福祉立法領域においては、広い立法裁量が肯定され、憲法14条1項違反と判断される可能性があること自体は否定されないもののほぼ合憲だとされてしまう枠組みが先例です(いうまでもなく、その嚆矢は塩見訴訟上告審判決です)。
ただ、この点についても、初歩的なところも含めて確認しておきましょう。当然のことながら、生活保護や社会保障に関する不支給や減額決定があった場合に、憲法論としては憲25条違反を理由に根拠法やその下での厚労大臣の支給基準を争うというのが定石中の定石です(朝日訴訟、堀木訴訟)。ところが、そもそも社会福祉立法はその財源確保の問題もあり、広い立法裁量が認められるわけで、ここからして勝ち目がないということになります。そこで、憲25条の権利の具体性を上げる(言葉どおりの具体的基本権説〔棟居快行・憲法解釈演習〔第2版〕142頁以下参照〕)などの学説が提唱されてきましたが、判例が受け入れるところではありませんでした。そのような中、近年では三つの方向性が望みがあるのではないかと考えられています(いま、手元になぜか古い版しかないのですが、長谷部恭男・憲法〔第6版〕の叙述をご覧ください)。1項2項分離論、制度後退禁止原則、平等原則です。
まず、1項2項分離論は、堀木訴訟控訴審が展開した考え方を受けて、いわば具体的権利説を憲法25条の条文構造に根拠づけようというものです。ただし、堀木訴訟控訴審のように1項2項をそれぞれ救貧と防貧に区別し前者に限って厳格審査を認めるというのは、救貧の範囲が狭すぎ批判されるところです。そこで、前者を人格的生存に必要な給付として把握するのはどうかなどといった議論がなされています。
つぎに、制度後退禁止原則は、学説上提唱される考え方で、いったん形成された給付水準がいわば既得権を構成し、そこからの後退は厳格審査に服すべきという考え方です。これは憲法上の条文の根拠づけが難しいのですが、生活保護法56条が不利益変更禁止原則を定めていることを逆手にとって、この原則は一般的なものであり、立法や厚労大臣の基準設定行為にも妥当するのだと主張します。老齢年金加算訴訟上告審がこの主張を退けたことはよく知られていますが、他方で厚労大臣の裁量権行使を判断過程統制で審査する中で激変緩和措置の要否および採用する場合の手段の選択も一応は議論されており、この議論の影響がうかがわれるところです。
第三が平等原則の活用で、こちらは塩見訴訟上告審が平等原則の適用を示唆したことにヒントを受けています。とくに、同じ境遇なのに給付を受けられる人とそうでない人との差が生まれる外国人や母子手当関連にはよく用いられる主張なのですが、立法裁量を前提とした合理性審査という枠組みに基づいて処理され、あまり良い成果を得られていないのはすでに示唆したとおりです(あと、この関連では社会権規約などの国際人権条約の援用もわりと持ち出されるテクニックです)。
(3) このように学説や弁護士グループは、様々な手法を駆使して、「立法裁量縮減の工夫」(長谷部恭男)をしてきたわけですが、どこか手詰まり感があります。そのような中、小山が注目するのがこの事例ということになります。
再度の確認になりますが、この事件で最高裁は、平等原則審査を回避して、受任命令の合法性という観点から違法性をあぶりだしたのでした。そこでは、「法は,いわゆる死別母子世帯を対象として国民年金法による母子福祉年金が支給されていたこととの均衡上,いわゆる生別母子世帯に対しても同様の施策を講ずべきであるとの議論を契機として制定されたものであるが,法が4条1項各号で規定する類型の児童は,生別母子世帯の児童に限定されておらず,1条の目的規定等に照らして,世帯の生計維持者としての父による現実の扶養を期待することができないと考えられる児童,すなわち,児童の母と婚姻関係にあるような父が存在しない状態,あるいは児童の扶養の観点からこれと同視することができる状態にある児童を支給対象児童として類型化しているものと解することができる」として、法4条1項各号が一定の類型の児童を掲げた趣旨を特定します(ちなみに、多数意見は、この類型化の趣旨が「生別母子世帯に対しても死別母子世帯と同様の施策を講ずることにある」という理解を退けています〔町田裁判官が批判するのはこの点です〕)。そして、このように特定された趣旨に鑑みると、本件括弧書きの児童が外れるのは、論理的に一貫しないのだから、法の委任の趣旨に反するから違法なのだと断罪します。
このような判旨からすれば、違法となるのは、「4条1項各号の趣旨に鑑みて、受任命令が論理的に整合的でなく、その意味で不合理な権力行使であって、法の委任の趣旨に反する」からであり、その意味で、この判決は受任命令の違法性に関する先例としての機能を持つといえましょう。その限りで、②の質問のような理解は正しいと思いますし、おそらく最高裁が考える判例の射程もそうなのでしょう。
(4) もっとも、本判決が示したこのロジックをもう一歩踏み込んで考えてみると、また違う風景が見えてきます。
そもそも、なぜ受任命令の制定者は、委任法条の趣旨に「論理的に一貫した」命令の制定が求められるのでしょうか。法律が命令に規律を委任するのは、受任者の専門的・政治的判断に期待するからなのであって、そのようなある種の裁量的な判断を期待しないのであれば、自分ですべて決めてしまう方がよいのではないでしょうか。このように考えてみると、この判例に従うと、最高裁は、命令制定の受任者が法律の許容する一定の枠の中で自由な判断に基づき命令を制定するというのではなく(『枠づけられた自由な制定行為』と便宜的に呼んでおきましょう)、受任者は、授権法律の趣旨に基づいて一貫した命令制定の義務を負うと考えているともいえるように思います(『段階的な内容形成』と呼んでおきましょう)。下世話な言い方ですが、「美人を恋人にしたいなあ」と思って知り合いに「あなたの判断を尊重するからあなたの思う美人を選んできて」とお願いした場合、選ばれた人が自分にとって美人じゃないと思われても、「あなたが選んだのだから」といって尊重するのが『枠づけられた自由な制定行為』なのに対して、「美人を恋人にしたいなあ」というときに、知り合いがおよそあなたが気に入らないような人を選んで来れば、それはあなたの「美人を恋人にしたい」という依頼の趣旨に叶わないのだからダメだと考えるのが『段階的な内容形成』とでもいえましょうか。
このような考え方は、一定の抽象的な価値ないし理念が法律⇒命令と細部にわたって定められていくというイメージと重なっています。いうなれば価値理念が法段階説的かつプロセス的に、法制度全体として具体化され実現されていくというイメージです。
小山は、最高裁がこの判決で『段階的な内容形成』という理解に立ったうえで違法だと判断したと理解しているのです。
(5) 長くなってきましたが、いよいよ小山説の説明です。でも、ちょっとイメージをつかむために、およそこの論点と関係のない論点に寄り道することをお許しください。それは、芦部・10頁「自由の基礎法」で解説される根本規範です。
この根本規範という概念は、ロー生はほとんど検討しておらず、かつ、芦部の説明だとあまりにもあっさりと通過していて注目されないのですが、つぎのような考え方です。
まず、ここでいう根本規範はケルゼンのいう実定法を超えた法の妥当根拠というのとは異なって、清宮四郎の「憲法の憲法」という考え方を採用したものです。清宮によれば、一見、同一の形式的効力を持ち、それゆえに同一平面上に存在する憲法の諸条規も、憲法を根拠づける本質的な部分とそうでない部分とにわかれるとされます。つまり憲法典には、根本規範とそうでない規範とが一緒に一つの法典の中に規定されているのだというわけです。そして、この憲法典中の根本規範(=憲法の憲法)は、「憲法が下位の法令の根拠となり、その内容を規律するのと同じように」、同じ憲法典中にある他の憲法規範の「根拠となり、またその内容を規律する」といいます。そして、だからこそそのような根本規範は憲法改正によっても改正できないというわけです。
いわれてみればたしかに、憲法典のなかには、たとえば表現の自由や普通選挙の原則のように自由で公正な社会に必要な政府を創設するという観点から、本質的に重要なものとそうでないものとが混在しているように思われます。そうすると、清宮のような理解もありうるかもしれません。ただ、ここで言いたいのは、「自由の基礎法」ないし「根本規範」の話ではなくて、「法の法」という考え方についてです。このような考え方は、憲法だけでなく、法令にも使えるのではないでしょうか。つまり、一つの法典ないし複数の法典からなる法体系は、その法典や法体系にとって根本的に大事な部分とそれ以外とに分けられるのではないかというわけです。そして、根本的に大事な部分とそれ以外とが矛盾ないし論理的な不整合を起こす場合には、そもそも論理的に一貫した法体系になっていないのですから、それはおかしいとも言えるでしょう(これを便宜上、「首尾一貫性の欠如のゆえに違法の法理」とでも言っておきましょう)。
ここまで来れば、小山がこの判決の論理を法律レベルでも用いることができるのだという趣旨がおわかりになるでしょう。ただし、上の「法の法」を下敷きにした説明は、ロー生でもかろうじてなじみがある芦部を基礎に理解してもらうために、私がオリジナルに付け加えた説明ですので、小山先生がこのように考えているかも不明ですし、このように説明しなければ、小山説が導入できないわけでもありません。
もっとも、上にみたような首尾一貫性ゆえに違法の法理は、直感的には「そりゃあそうだよな」といえそうなものではないでしょうか。しかも、最高裁自身同じような考え方をたとえば森林法違憲判決や郵便法違憲判決、さらには衆議院の一票の較差に関するとくに近年の判決でも用いているように思われます。森林法についていえば、(石川説的な説明ですが)「一物一権主義」が「根本的に大事な部分」であり「共有物分割請求権の否定」はその論理的に一貫した体系化から外れるから、それを合憲だというためには適切な説明が要ると考えたといえるでしょう。一票の較差もそうで、小選挙区制と選挙区画定審議会設置法の下では、「一票の較差が2倍未満」になることが「根本的に大事な部分」であって、「一人別枠方式」や「較差2倍以上の放置」はその論理的な体系化から外れるから、それを合憲だというためには適切な説明が要ると考えているといえそうです。
そうだとすると、これをある法律の中に同居している条文同士の関係にまで推し進めるところまではあと一歩だといえるようにも思います。
以上で小山説のおおよそのところは理解していただけたのではないでしょうか。③の質問に即していえば、
「憲法25条が保障する生存権の実現はたしかに立法者の広い裁量にゆだねられ、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断をするのに適しない事柄である。しかし、立法者が制度の根幹となる基本的な原則を決定したと解される場合には、立法者は、原則として、その決定したところと論理的に矛盾がない首尾一貫した法律を制定するのが通常であるといえる。言い換えれば、法が定める特定の条文が、立法者の基本的な決定と論理的に不整合を起こす場合には、その程度に応じて、それを正当化するだけの合理的な理由が求められると解されるところであり、そのような合理的な理由が示されない場合には、かかる立法は合理性を欠き、違憲と判断すべきである。
この点、法が4条1項各号で規定する類型の児童は,生別母子世帯の児童に限定されておらず,1条の目的規定等に照らして,世帯の生計維持者としての父による現実の扶養を期待することができないと考えられる児童,すなわち,児童の母と婚姻関係にあるような父が存在しない状態,あるいは児童の扶養の観点からこれと同視することができる状態にある児童を支給対象児童として類型化しているものと解することができる。したがって、法〇条〇号が、母が婚姻によらずに懐胎,出産した婚姻外懐胎児童は,世帯の生計維持者としての父がいない児童であり,父による現実の扶養を期待することができない類型の児童に当たるのにこれを除外するのは、これを正当化する特段の合理的な事情がない限り、違憲というべきである」。
ということになるでしょう。
(6) 最後に、小山説がどれほど一般的かという④の点についてお答えしておきたいと思います。まず、この「首尾一貫性の欠如ゆえに違法の法理」(このネーミングは私がッ今ここで便宜的につけたものですから、答案の中でうっかり書いたりしないようにしてくださいね)は、ここ10年ほどドイツで盛んに議論された考え方(ドイツでは、首尾一貫性審査と呼んでいます)で、ドイツ憲法学をバックボーンに持つ教員(私も、村西先生も、松本先生もそうですが)にとってはそれほど違和感のない考え方です。しかし、当然のことながら、司法試験の採点委員はドイツ系の教員だけではないですし、もっといえば実務家も多くいます。その中でこの論理を突然繰り出すのはやはり勇気がいります。
他方で、首尾一貫性審査によく似た手法は、我が国の最高裁判例でも、学説でもたびたび議論されてきたところです。したがって、うまく書いても評価されないのかというとそうではないようにも思われます。
そこで、活用できそうな場面では活用してもよいということになりますが、その際、3点気を付けてください。
まず、(5)の末尾の論述例にも示したように、首尾一貫性の欠如が直ちに違憲と評価されているわけではなく、それをきっかけにして、それを正当化する理由の有無を審査するものであるという点です。これはドイツでも同じです。「首尾一貫性の欠如により直ちに違憲」などと書くぐらいなら使わない方がましという気もします。
つぎに、「首尾一貫性の欠如」がなぜ「違憲」の評価を導くかという点にも気を配ってください。同じく(5)の末尾の論述例をよくご覧ください。
最後に、この審査手法は、ドイツでも通常の比例原則審査が機能しない場合(審査密度が浅くならざるをえない場合=「主張可能性統制」と呼ばれる審査手法が妥当する場合)に用いられる手法だと考えられています。その意味では、平等原則の合理性審査が妥当する領域とか、社会権実現立法、租税立法、市場創設・規制立法の審査など、場面を選びますので気を付けてください。
【質問メール2】
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質問③について新たな疑問が生じたため、重ね重ね大変恐縮ではありますが、追加で質問させて頂いてもよろしいでしょうか。
質問③につき、
私が提示させて頂いた小山説の理解
<憲法25条に基づいて社会保障制度が構築された場合、社会権は制度として保障されているといえる。本件では、(1)法の趣旨・目的に照らし、「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」に対して児童扶養手当受給権が憲法25条により保障されているといえ、(2)本件規定が「父から認知された児童」につき支給除外とすることはかかる権利の制限といえ、(3)認知により法律上の父がいる状態になったとしても「父による現実の扶養を期待することができない」ため、本件規定は「父による現実の扶養を期待することができない類型の児童」のみを支給対象にするという目的を達成するために合理的な手段として正当化できないから、(4)本件規定は憲法25条に違反する。>
と、先生がご教授くださった小山説の理解
「憲法25条が保障する生存権の実現はたしかに立法者の広い裁量にゆだねられ、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断をするのに適しない事柄である。しかし、立法者が制度の根幹となる基本的な原則を決定したと解される場合には、立法者は、原則として、その決定したところと論理的に矛盾がない首尾一貫した法律を制定するのが通常であるといえる。言い換えれば、法が定める特定の条文が、立法者の基本的な決定と論理的に不整合を起こす場合には、その程度に応じて、それを正当化するだけの合理的な理由が求められると解されるところであり、そのような合理的な理由が示されない場合には、かかる立法は合理性を欠き、違憲と判断すべきである。
この点、法が4条1項各号で規定する類型の児童は,生別母子世帯の児童に限定されておらず,1条の目的規定等に照らして,世帯の生計維持者としての父による現実の扶養を期待することができないと考えられる児童,すなわち,児童の母と婚姻関係にあるような父が存在しない状態,あるいは児童の扶養の観点からこれと同視することができる状態にある児童を支給対象児童として類型化しているものと解することができる。したがって、法〇条〇号が、母が婚姻によらずに懐胎,出産した婚姻外懐胎児童は,世帯の生計維持者としての父がいない児童であり,父による現実の扶養を期待することができない類型の児童に当たるのにこれを除外するのは、これを正当化する特段の合理的な事情がない限り、違憲というべきである」
を比較したところ、以下の疑問が生じました。
【質問⑤】
先生がおっしゃられた内容について、
「法が定める特定の条文が、立法者の基本的な決定(=いわば「法の法」)と論理的に不整合を起こす場合には、その程度に応じて、それを正当化するだけの合理的な理由が求められる」。
(A)法4条1項各号は、「児童の母と婚姻関係にあるような父が存在しない状態,あるいは児童の扶養の観点からこれと同視することができる状態にある児童(=父による現実の扶養を期待することができない類型の児童)を支給対象」にしたものといえ、これは立法者の基本的決定である(原則)。
(B)施行令1条の2第3号括弧書(に対応する規定)が「父による現実の扶養を期待することができない類型の児童に当たるのにこれを除外する」ことは、「立法者の基本的な決定と論理的に不整合」である(例外)。
したがって、「その程度に応じて、それを正当化するだけの合理的な理由が求められ」、「これを正当化する特段の合理的な事情がない限り、違憲というべきである」。
と理解しました。
この先生が提示してくださった論理は、私が提示させていただいた、
(1)法の趣旨・目的に照らし、「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」(=父による現実の扶養を期待することができない類型の児童)に対する児童扶養手当受給権は、(法4条1項各号により具体化された)憲法25条により保障されている。
(2)本件規定が「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」のうち「父から認知された児童」につき支給除外とすることは、かかる権利の制限といえる。したがって、制限を正当化できなければ違憲となる。
という理解と、それぞれ(A)が(1)に、(B)が(2)に、対応するとはいえないのでしょうか。
【質問⑥】
さらにいえば、小山教授の理解は、立法者の基本的な決定により、作為請求についての「二重の未確定性」(小山115頁)が解消され、「原則ー例外の関係」(小山12頁)が観念できるから(本件についていえば、<父による現実の扶養を期待することができない児童については、原則として支給すべきであり、例外として支給しない場合には、それを正当化するだけの合理的な理由が要求される>)、防御権と同様に三段階審査(あるいはそれに類似する審査)をすることができる、とはいえないのでしょうか。
(小山121頁は、郵便法違憲判決のような場合には原則ー例外関係が観念できるとしており、これも参考にしました)。
【質問⑦】
また、先生がおっしゃられた「正当化するだけの合理的な理由」の有無の検討は、具体的にはどのように行えばよいのでしょうか。
例えば、本件であれば、支給除外とすることにより得られる利益と失われる利益の衡量(あるいは重要ないし正当な目的達成のため必要かつ相当な手段といえるか否か)により判断すればよいのでしょうか。
【質問⑧】
上記⑤〜⑦にも関連しますが、首尾一貫性審査が「立法裁量縮減の工夫」たりうるのは、<原則ー例外>の構造を観念できるからだであり、それに尽きるとすれば、なおも財源確保の問題など社会福祉立法領域における裁量を基礎づける事情は問題となるのであるから、積極目的での経済活動規制のように、結局は「著しく不合理であることの明白である場合に限って」違憲となるといった緩やかな審査がなされてしまうのではないでしょうか。(「首尾一貫していないからお金を払いなさい」と裁判所が判断することの妥当性については、財政民主主義などに照らして疑問が残るとも思いました。)
【質問⑨】
(以上の議論はなんだったんだという質問ではありますが、)受験テクニックとしては、本件のような問題では、現場で混乱しそうであれば、首尾一貫性審査ではなく、平等原則審査によったとしても間違いではないのでしょうか。
【回答メール2】
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【質問⑨】について
ご指摘のとおりです。無理に首尾一貫性審査に持ち込むのではなく、平等審査の厳格な適用を求めるというのがファースト・チョイスです。ただ、この場合、原告の主張としては使えても、裁判官の判断としては使いにくいように思います。もちろん、あてはめで勝負するという手はありますし、そこまでがきちんとできていれば十分に合格点です。というか、そこまでがきちんとできていないようでは首尾一貫性審査を主張するなんてこわくてとてもとてもできません。
【質問⑤】について
木村さんがお示しになられた(1)についてですが、木村さんは
「法の趣旨・目的に照らし、「母が婚姻…によらないで懐胎した児童」(=父による現実の扶養を期待することができない類型の児童)に対する児童扶養手当受給権は、(法4条1項各号により具体化された)憲法25条により保障されている」。
ということでした。
まず、生存権が抽象的権利であるという通説的な理解は、まさに、かかる権利については、小山先生のいう「二重の未確定性」があるということを承認するということにほかなりません。
したがって、憲25条をいくら解釈しても、個別具体的な主観的権利が25条自体から導き出されるわけではありません。その意味で、法の趣旨・目的から、憲法25条で保障される児童扶養手当受給権が導出されるという論証に強い違和感を覚えます。
これに対して私のAの部分は、小山流の説明をするとすれば、児童扶養手当受給権が受けられないという一定の法的地位に原告が置かれていることをきっかけとして、あるいは、憲25条が一定の作為請求権を抽象的に保障していることをきっかけとして、立法裁量の当不当の審査に移るという理解に基づいています。つまり、あくまでも個別具体的な主観的権利の存在は導き出せず、その具体的形成は立法裁量に委ねられていることを前提とする立論です。
したがって、(2)の部分も、権利の制限というよりは、立法裁量の行使が違法・違憲だという理解に立つことになります。
ここまで書いてきて気が付きましたが、私のAの部分は、堀木訴訟上告審をはじめとしておなじみの立法裁量を導く論証からの続きなのだということを強調しておいた方がいいかもしれません。解答時に余裕があれば、堀木の説示をコピペすればよいのですが、この点をある程度書いたバージョンも示しておきます。
「この点、堀木訴訟上告審判決では、憲25条が具体的な権利を保障したものではないことを前提に、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定が立法府の広い裁量に委ねられるとしている。
健康で文化的な最低限度の生活が抽象的・相対的な概念であること、その具体的内容は、その時々における社会的・経済的条件や一般的な国民生活の状況との相関関係において判断決定されるべきこと、さらにこれを具体化するにあたっては、国の財政事情を無視しえず、また,多方面にわたる複雑多様な,しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものであることに鑑みれば、憲法25条が保障する生存権の実現はたしかに立法者の広い裁量にゆだねられ、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断をするのに適しない事柄であるといえる。
しかし、立法者が制度の根幹となる基本的な原則を決定したと解される場合には、立法者は、原則として、その決定したところと論理的に矛盾がない首尾一貫した法律を制定するのが通常であるといえる。言い換えれば、法が定める特定の条文が、立法者の基本的な決定と論理的に不整合を起こす場合には、その程度に応じて、それを正当化するだけの合理的な理由が求められると解されるところであり、そのような合理的な理由が示されない場合には、かかる立法は合理性を欠き、違憲と判断すべきである。
本件についていえば、当該条文の趣旨、目的の合理性及びかかる趣旨・目的と括弧書き該当児童に手当てを支給しないこととの間の合理的関連性が存することが肯定されなければならない。」
【質問⑥】について
この点はご指摘の通りです。このような制度準拠審査の強みは、原則例外観念が本来的に想定できないところに、原則例外関係を無理やり擬制して審査を行ってしまうところにあります。
【質問⑦】について
この事件を前提にすると、括弧書きに類型化される児童が外されるのは、そもそも法が裁判所の認定とは別の趣旨だったからだというのが行政側の主張でしょうから、裁判所認定の趣旨を前提にしてどのような合理性があるかという点については、立証がないので破棄差戻しをするか、合理性を基礎づけるだけの事実がないと判断することになると思います。
その意味では、私の示した書き方だと一番簡単には、総合考慮の枠組みを示したうえで、第1審のように検討したのち、「本件については、合理性を肯認するだけの特段の事情もうかがわれない」とすることになるだろうと思います。
【質問⑧】について
もちろんご指摘のような考え方はありうるところです。ただ、気を付けてほしいのは、財源確保などは、どれだけ立法府の判断を尊重するかということなのであり、審査の枠組みではなく、審査密度に関わる問題です(小山・73頁)。もっとも、この点についても、首尾一貫性審査の強みはあります。というのも、首尾一貫性審査は、立法府の基本的な決定(立法府の第一次判断権)を尊重したうえで、さらに詳細な説明を求めるという構造をもっているからです。このことは、審査をある程度厳格化することにつながります。このように考えると、財政事情といっても、一定の児童に支給することによって増大する財政事情ではなく、括弧書き該当の児童を支給対象とすることによって増大する財政事情が問題になるわけですから、その程度であれば立法府に敬譲しなくても良いとかんがえることもできるでしょう。
また本問では財政事情が問題となっているのではなく、誰に手当支給の必要性の有無という点に関する立法府の判断が本質的な争点なのですから、この点について一層踏み込んだ判断をする余地はあるように思います。
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質問と回答は以上になります。
長文失礼致しました。
大阪大学大学院 高等司法研究科 平成28年度修了生
木村洋介